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『本格』か、『変格』か 〔横溝正史『獄門島』を巡って 下編〕

 

  5 《見立て》が背負う十字架

  

 《見立て》殺人を正面から扱った探偵小説の中でも、その先駆性といいストーリー性といい、最も著名な作品は、矢張り、S・S・ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』であろう。

 

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 物語は、ジョジフ・コクレーン・ロビンという人物が弓矢で殺害されたという知らせが探偵役のファイロ・ヴァンスの元へと齎される処から始まる。

 次なる犠牲者は、ジョン・E・スプリッグという大学院生だ。彼は〈小さな鉄砲〉で〈かつら〉(頭)の〈まん中〉(頭頂部)を撃ち抜かれて殺される。

 三人目は、〈せむしのふさぎや〉さんと近所の遊び仲間である子供たちから慕われていた変わり者の天才数学者、アドルフ・ドラッガー。彼は、慣れ親しんだ公園の高い壁から墜落死する。

 やがて、半ば一連の殺人事件の犯人と目されていた数学者でチェスの名人でもあるジョン・バーディーがトランプカードを組み立てて作った〈家〉の傍らでピストル自殺を遂げる。

 事件は一旦は収束したと思われたのだが、〈せむしのふさぎや〉ことドラッガーと仲が良かったマデレーンという小さな女の子が誘拐される事件が発生するや、ヴァンスの活躍により事態は急変、軈て物語は驚愕の幕引きへと雪崩れ込む。

 連続する凶悪事件を包み込むのは、〈マザーグース童謡〉だ。 

 ジョジフ・コクレーン・ロビン即ち《コック・ロビン》の殺害に重ね合わされたのはご存知《コック・ロビンを殺したのはたあれ》。私は、正直、魔夜峰央の『パタリロ』のアニメ・エンディングで流れていた『クック・ロビン音頭』で知ったクチですが。

 まぁ、それはそれとして。

 二人目のジョン・E・スプリッグには、こんなマザーグース童謡が用いられる。

 

 小さな男がおりました

 小さな鉄砲持ってました

 たまは鉛で、鉛のたまで

 ジョニー・スプリッグ射ちました

 かつらの真ん中射ちました

 かつらはふっとぶ、とぶおつむから

 

 〈せむしのふさぎや〉さんのドラッガーは、《ハンプティ・ダンプティ》だ。

 彼は、マザーグース童謡に登場するキャラクター(卵を擬人化した姿で表現される)《ハンプティ・ダンプティ》同様、《高い塀》から落ち、二度と《もとにはもどらない》。

 ジョン・パーディーが建てたカードの〈家〉も、マザーグース童謡に出てくる詩である。「これはジャックが建てた家」から始まり、どんどん歌詞が繋がって行く〈積み上げ詩〉だ。

 マデレーンの誘拐事件は、《かわいいマフェット嬢ちゃん》に則って行われる。

 

 かわいいマフェット嬢ちゃんは

 芝生のうえに坐ってた

 お乳のお菓子を食べていた

 そこへ大きな蜘蛛がきた

 のそりとそばに坐りこむ

 びっくり嬢ちゃん逃げ出した

 

 勿論『僧正殺人事件』に於ける〈マザーグース童謡〉の意味合いも、単なる《もじり遊び》の域を遙かに超える。

 ファイロ・ヴァンスは、一連のマザーグース殺人の犯人は〈数学者〉であると断じた上で(その辺りの論説は、長くなるので割愛する)、尚且つ、その〈数学者〉は〈あまりにも真剣な論理的思索と釣合いをとるために、その反動として、もっとも空想的な、気まぐれな行動〉に出た〈数学者〉である、と分析する。

 『長期間にわたって、大きな、頭脳の緊張をつづけた後には、その反動は、まったく逆の形をとる――ということは、この上もないまじめな、いかめしい人間が、この上もなく子供っぽい遊戯に捌け口を求める』ようになるのだ、とヴァンスは説くのである。

 穿った言い方をすれば、マザーグースの歌詞通りに殺害される被害者たちは、結局は、ファイロ・ヴァンスに〈真犯人〉を導き出させるための《心理分析的証拠》でしかない。と同時に、後述するのだが、〈真犯人〉にとっても、ヴァンスの一連の推理的行動は必要不可欠なものなのである。

 『獄門島』の場合、一連の奇妙な殺人構図が俳句の《見立て》であると金田一耕助が気付くのは、物語の後半である。その発見は犯人(のうちの一人)の確定にも繋がって行く(所謂《てにをはの問題》)のだが、三人の被害者が出て、漸く《見立て》に気付くという体たらくさは既に述べた通りである。

 一方、『僧正殺人事件』では、その端緒から〈マザーグース童謡〉との関連がファイロ・ヴァンスによって示唆される(盟友であるニューヨーク州地方検事のジョン・F・X・マーカムなどは最初のうち、全く相手にしないが)。マーカム地方検事からの電話で事件を知ったヴァンスは、あれこれと書物を調べ回った挙句、こう所感を漏らす。

 

「そんなことってあり得ない」とヴァンスは自分にいいきかせるかのように抗弁した。「あまりにも風がわりだ。あまりにも残忍だ。あまりにもひねくれすぎている。血まみれのお伽ばなしだ。――いびつな世界だーーいっさいの合理性が倒錯してる……想像もつかない。話にならない。まるで悪魔の魔法だ、妖術だ、奇術だ。正真正銘の精神錯乱だ」(本文より。井上勇訳/前掲したマザーグース童謡も同書より引用しました) 

 

 それでも足らぬと言わんばかりに、《僧正》を名乗る犯人自らが事件現場の郵便受けや新聞社に、この殺人事件は〈マザーグース童謡〉の歌詞通りに行われましたと喧伝する手紙を投げ込んだり、送り付けたりする。

 そんな犯人の行為を、ファイロ・ヴァンスはこんな風に論じたりもする。

 

「しゃれというものは、人にわかってもらわねばならぬものだ」とヴァンスは答えた。「しゃれの値打は、それを聴くものの耳の如何によって定まる。それに、今度の事件の場合は、露出症の衝動も加わっている」(本文より。井上勇訳)

 

 まさに、ヴァンスの言う通りだ。『しゃれ』即ち《見立て》は《見立て》て貰わなければ《見立て》として成立しない。と同時に、そこに何らかのトリックが隠されているのならば、《見立て》た者は、どうしても誰かに《見立て》て貰わなければならないのである。

 例えば『僧正殺人事件』の《見立て》の背後に張り巡らされたトリックは、偽の〈犯人〉へのミスリードだ。『獄門島』の場合は、《見立て》に用いられた釣鐘や鈴、或いは死体そのものが、アリバイ工作の〈小道具〉として上手に活用されている。真の〈犯人〉側から見れば、これらの仕掛けに掛かって貰う為にも、仮に真相を暴露してしまう危険性を犯しても尚、《見立て》の存在に気付いて貰わなければならないのである。

 その役を(意識的にも無意識的にも)任じているのが、他でもない金田一耕助やファイロ・ヴァンスなのだが、この〈探偵役⇔犯人〉の関係性は、実に不条理であり、不健全(敢えて、この言葉を使わせて貰うが)極まりない。

 何故なら、片や、決して捕まりたくない(或いは、少なくとも捕まらないようにトリックを弄しようとする)〈真犯人〉、片や、その〈真犯人〉の提供した《謎》を解き、〈真犯人〉を暴こうとする〈探偵〉役、そのベクトルの全く違う二人が、恰も協力し合うかの如き関係性が生まれてしまうからだ。

 この不条理且つ不健全な関係性こそが、大乱歩謂う処の 〈常識論的な納得の行かなさ〉に他ならないのではないか、と私は考える。

 元来《探偵小説》自体が、多かれ少なかれ、そんな不条理且つ不健全な構図を描かざるを得ない小説ジャンルではある。《探偵小説》の中で提示された《謎》は最終的に解かれなれば《探偵小説》は成り立たないし、その為にこそ〈探偵〉役は存在する。従って、何度か述べてきた通り、それらの《謎》は、全て、〈探偵〉が〈真犯人〉を導き出す為の《証拠》乃至は《材料》へと置き換えられる。かなり乱暴な言い方だが、《探偵小説》に於いては〈真犯人〉は捕まる為に《謎》を現出させるのである。

 従って、これらの《謎》が、深く、濃く、然も単純明快(解明した時に無理がない)で、〈真犯人〉との距離感が心理的にも、また、物理的にも離れていればいるほど(この場合も何らかの形の『無理の無さ』が求められる)、その《謎》が解き明かされ、〈真犯人〉が指摘された時のカタルシスは強い。

 この二者(若しくは〈探偵〉を加えての三者)のバランスが《探偵小説》には重要なのだ。《探偵小説》の読者は、謂わば、法と正義の象徴とされる天秤を持つ女神《テミス》のような存在だろう。如何に《謎》が不可思議性に富んでいたとしても、矢鱈複雑で小難しい説明が必要だったり、折角、高いクオリティの《謎》が、当に快刀乱麻を断つが如く解明されても、《真犯人》が明らかに最初から怪しい人物(確かに、その手の『態とハズす』系《探偵小説》もあるにはあるが。例えば、坂口安吾の『不連続殺人事件』とか。飽く迄も、個人的見解ですが)だったりすれば、読み手は、肩透かしを喰らったかのような気になってしまう。

 《探偵小説》を取り巻く論議の一テーマとして、『本格』と『変格』に関する問題がある。その歴史は古く、甲賀三郎により『本格』という言葉が使われ出したのが大正14年(1925年)の事だから、彼是90年もの永きに亘って、《探偵小説》愛好家や推理作家たちを悩ませてきた。事実、何度か、この『本格』と『変格』を巡る論争が繰り広げられてきたのだが、その辺りの事情については、また別稿で論じたいと思う。

 孰れにしろ、〈何を以って『本格』と称するか〉に関しては、取り敢えず、ここでは《謎》と〈真犯人〉、そして、〈探偵〉が導き出す《謎》の解明が美味くブレンドされ、一服の秀逸な味わいとして堪能できる《探偵小説》こそが、『本格』を被せるに相応しい作品となるのだ、と定義しておきたい。 

 その定義を踏まえた上で照らし合わせてみると、《見立て》をテーマとした《探偵小説》というものは、矢張り、『変格』の部類に入らざるを得ないのではないか、と思えてしまう。

 いや、それは考えすぎではないか。この論考を重ねながら、私の心の一部は、常に、そう叫んでいた。『獄門島』にしろ『僧正殺人事件』にしろ、何れも『本格』《探偵小説》としては、絶大の評価を得ており、東西《探偵小説》の雄と言っても過言ではない。だが、江戸川乱歩の言葉を借りるまでもなく、何処か『本格』としての物足りなさを感じてしまうのも正直な気持ちだった。

 その最大の理由は、提示された《謎》、即ち、片や『俳句に擬えた殺害死体』、片や『童謡に擬えた異常殺人』から導き出される解答と、暴かれた《真犯人》の関連性が、非常に脆弱だからだ。

 《見立て》殺人を企てた《真犯人》は、何故、その殺人を《見立て》ねばならなかったのか。

 『獄門島』の場合は、〈趣味嗜好〉。

 『僧正殺人事件』の場合は、〈反動〉。

 

 え、それだけなの?

 

 と、ついつい思ってしまう。

  だが、この何とも言えない〈肩透かし〉感を味わいながらも、《見立て》をテーマとした《探偵小説》は、矢張り(《書き手》にとっても《読み手》にとっても)、非常に魅力的なのだ。

 

 梅の樹から逆さにぶら下がる少女。

 凍った湖面からにょきりと突き出す両足。

 便器の中に逆さまに突っ込まれた死体。

 滝から流れ落ちる水を口の漏斗で受け止める娘。

 

 実に、絵になる。

 大体《謎》の提出自体がダイレクト且つスマートだ。

 なのに、何故、その答えとなると『え? それだけ?』的な解答多いのだろうか。 

 今回、敬意を表して、横溝正史の『悪魔の手毬唄』に関しては余り突っ込んだ分析はしなかったのだが、基本的には『僧正殺人事件』と同じ構図になっている。

 〈真犯人〉が『鬼首村手毬唄』を《見立て》に用いたのは、偽の〈犯人〉へのミスリードという側面もあるのだが、結局は、自分が狙う三人の娘と『鬼首村手毬唄』に謡われている三人の娘たちとの相似だけなのだ。それに気付いた〈真犯人〉は、もう、この『手毬唄』を無視して犯行を行うなど考えられなくなってしまった。

 結果、恨み骨髄の〈真犯人〉は、嬉々として《見立て》を実行する。

 要は、その程度なのだ。

 なんとなく、はぐらかされたような気がしてしまうのは私だけなのだろうか。

 考えるに、この感情の出どころは《見立て》殺人を扱う《探偵小説》(正確には、そこに登場する〈真犯人〉)が背負わざるを得ない殺害に至る《動機》の二重性にあるのではないか。

 例えば、『獄門島』の場合は、〈真犯人〉の本来の動機は《優生主義》に根差した〈邪魔者〉即ち〈三人娘〉の排除だった。『僧正殺人事件』では、実に単純な《嫉妬》の念(自分よりも優れた頭脳に対する《嫉妬》、或いは愛情から来る《嫉妬》)が殺害の動機となっている。

 これら本来の《動機》に、更に《見立て》を行う《動機》をも〈真犯人〉は背負わねばならなかった。

 確かに《探偵小説》に於いては、この手の《何故、✖✖しなければならなかったか》という命題を大なり小なり説明しなければならない。

 都築道夫の〈キリオン・スレイ〉シリーズの第一集『キリオン・スレイの生活と推理』などは、その《何故、✖✖しなければならなかったか》が、その儘、短編の題名(どちらかと言えば〈副題〉的扱いだが)になっている。

 例えば、

  

 なぜ自殺に見せかけられる犯罪を他殺にしたのか

 なぜ完璧のアリバイを容疑者は否定したのか

 なぜ殺人現場が死体もろとも消失したのか

 なぜ密室から凶器だけが消えたのか

 

 と言った具合に。 

 《探偵小説》の場合、〈犯人〉〈動機〉〈殺害状況〉等の根幹部分に関する《謎》に加え、この『キリオン・スレイの生活と推理』のように、細部にも《謎》が鏤められている事が多いから、それら全てを包括した上で《謎》に対する説明が為されなければならないのだが、重要な事は、その一つ一つの暴かれた事実が一繋ぎになった時点で、全てが『論理的に整合性を持たねばならない』という約束を守らねばならないという点だ。

 その〈論理的〉な〈整合性〉を保つ事が《探偵小説》では至難の業なのだが、《見立て》をテーマとした場合は難易度が一気に揚がる、というか、寧ろ、破綻すらしてしまうように思えて仕方がないのである。

 

 なぜ犯人は《見立て》ねばならなかったのか

 

 の答えが、『犯人が、そうしたかったから』というのは如何なものか。

 

 別のテーマ例を挙げて、比較してみよう。

 《探偵小説》作家が一度は取り上げてみたいと考える《密室》も、その〈論理的〉な〈整合性〉を保つのが困難なテーマだ。鍵の掛かった部屋で死体が見つかった場合、〈論理的〉な〈整合性〉が保たれる唯一の理由は『犯人に因る〈自殺〉乃至は〈病死〉といった〈他殺〉以外が原因だと思わせる《死》の演出』のみである。

 だが、この〈論理的〉な〈整合性〉も『孰れ暴かれざるを得ない《探偵小説》の《謎》』という構図の中では、やや、無理強いな設定へと傾き兼ねない。結局、『〈自殺〉乃至は〈病死〉』は〈他殺〉であると判断され、苦労して創り出された《密室》は、無粋な《探偵》に依って無理やり抉じ開けられてしまう運命にある。穿った捉え方をすれぱ、だったら端緒から《密室》など現出しなくてもよいのだ。寧ろ、鉄壁の《アリバイ作り》に精力を傾けた方が、より現実的だ。

 《見立て》殺人も、同様である。〈動機〉が他にきちんとあって、その〈動機〉に則って犯罪が行われるのなら、態々そこに〈童謡〉や〈俳句〉を《見立て》るなどというややこしい手法を取り入れる必要はない。あるとすれば、責て〈論理的〉な〈整合性〉を用意して欲しいのだが、結局は、犯人の気分でしかないのだとすれば、《探偵小説》としては、余りに適当すぎる。

 ただ、《密室》と《見立て》が大きく違っている部分は、《密室》の場合、仮に《密室》での〈自殺〉なり〈病死〉が〈他殺〉であると判明しても、次の段階として、では《密室》はどのようにして創り出されたか、という新たな《謎》へと昇華してゆく点にある。これは、当初から『《密室》での〈他殺〉』であったとしても同じである。詰まり、《密室》は《密室》として認知されても尚、《探偵小説》としての《謎》を提出し続ける事が可能なテーマなのだ。

 一方の《見立て》殺人の場合は、どうか。

 どの段階であろうと《見立て》が《見立て》られた時、唯一導き出される《謎》は、『何故』だけである。《誰が》《どうやって》は、余り大きな位置を占めない。《見立て》自体が既に大きな《謎》として存在するだけで、それ以上でも以下でもないのだ。精々、行われた犯罪の背後に横たわる〈行動心理〉を導き出すのが関の山だ。だからこそ、《見立て》は《探偵小説》よりも動機無き(と臭わせて、実は動機が在る)連続殺人を追う《警察小説》に馴染んだりもするのだ。

 極端な表現をすれば、《見立て》テーマの《探偵小説》は、二つの動機を〈探偵〉役或いは〈読者〉に投げかける。即ち、その犯罪自体に対する〈動機〉と《見立て》ねばならなかった〈動機〉の二つを。

 この二つの〈動機〉は、イコール(そこまでには至らなくとも、連携した一つの〈動機〉としての機能)に成り得るだろうか。

 無理だ。

 『犯罪自体に対する〈動機〉』は、常に、どんな『犯罪』であろうともシンプルである。金銭。恨み。嫉み。妬み。嫌悪。怒り。《殺人》という行為を犯す事によって、《殺人》の実行者が何らかの恩恵(衝動的な憤怒の発露の結果起きた《殺人》もまた、或る種の恩恵〈『スカッとする』的な〉だろう)を得る。その図式は、非常に単純且つストレートであり、そこに《見立て》への〈動機〉(〈情動〉と置き換えても好い位だ)を挟み込むのは矢張り無理がある。『単純且つストレース』な〈動機〉に、敢えて《見立て》という訳の分からない〈複雑〉系を加える必要がどこにあろうか。

 ただ一つ、例外を挙げるなら、それは『殺したいから、殺したいように殺す』異常殺人者の場合だ。前段の『私説《見立て》類別』で触れた〈人食い〉ハンニバル・レクター博士のように、単純に、そのセンスのみで『したいから、する』という犯罪行為としてなら《見立て》は極めて実用性のある手法となるが、こと《探偵小説》というジャンルの中では、どうしても取って付けた邪魔な行為へと落ちぶれてしまう。

 結論を言おう。

 《見立て》は〈殺人〉を扱う一つの『物語』に対する霊妙なるエッセンスではあっても、《探偵小説》を《探偵小説》(無論、この言葉に『本格』の二文字を被せても良い)足らしめる材料としては、非常に役不足なのだ。

 確かに《謎》としては、これほど読む者を魅了するテーマはない。

 そのインパクトの強さは、《何故》が、あからさまなまでの形態で提示されるところからくるのだろう。故に、《何故》の答えに対する期待も、弥が上にも高まることになる。《何故》犯人は、被害者を《見立て》ねばならなかったのか。そこには、普通では考えも及ばない、だが、為るほど明瞭な理由が存在するに違いない。そう期待してしまう。

 なのに、用意された《解答》と言えば、本来の動機を隠す為だとか、偽の〈犯人〉へとミスリードする為だとか、要は、捜査を攪乱する程度が関の山で、では、《何故》《見立て》を用いたのか、という問いかけには、精々〈精神論〉で答えるのが精一杯という為体だ。

 或いは、全ての元凶は、今から九十年ほど前一美術評論家が書き始めた、とある《探偵小説》シリーズの中に用いられた一シチュエーションの素晴らしさの中にこそ在ったのだろう。本来なら、そこで終わりにするべきだったのだ。だが、余りに魅力に富んだその題材は次々に亜流作品を生み出していったものの、《探偵小説》に於ける一《テーマ》としては今一つ柔軟性に乏しかった。辛うじて『ABC殺人事件』で試みられたような、所謂《筋書き》殺人へと変容して、《探偵小説》としての進化を遂げたともいえるのだが、《密室》テーマのように、様々なバリエーションを生み出すまでには至らなかった。

 

『探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である』

 

 そう定義したのは、江戸川乱歩である。

 《犯人》は、この『難解な秘密』を何とか糊塗しようと苦心惨憺し、《探偵》は、その目論見を一つ一つ《論理的》紐解いてゆく。その『経路の面白さ』こそが、《探偵小説》の『主眼』なのだと大乱歩は謂う。

 『獄門島』に向かって放たれた〈常識論的な納得の行かなさ〉という江戸川乱歩の言葉は、この作品に描かれた《見立て》の部分に限っては『難解な秘密』も『論理』性も、悉く破綻しているが故に発せられたのではないか、と思うのは穿ちすぎであろうか。

 

 6 終わりに

 

 あれこれ好き放題論じてしまったが、それでも『獄門島』は私の大好きな《探偵小説》である。

 特に、《物語》全体を包み込む抒情的な雰囲気が何とも堪らない。

 

 惨劇の夜は霧のふかい朝となって明けた。(本文より)

 

 素晴らしい一文だと思う。

 中でも私が一番好きなシーン(どうしても、頭の中に〈画像〉を描かずにはおれないのだ)は、ラストだ(そして、私の記憶の範囲では、この『大団円』の箇所を完全に再現した映画もテレビシリーズもないのである。是非、完コピで映像化して欲しいと切に願う)。

 金田一耕助が、島を去る日。

 船着き場。

 見送る島の人々。

 彼らに降り頻る小糠雨。

 いい知れぬ悲哀を抱いた耕助(『床屋の清公』に言わせれば『早苗』にフラれたかららしい)。

 別れの挨拶。

 馴染みの白竜丸が船着き場へと入ってくる。

 出ようとする艀に飛び乗る一人の復員服姿の若者。

 鵜飼章三だ。

 

「あっはっはっ、鵜飼さん、おまえとうとうお払いばこになったね。さりとは分鬼頭のおかみも現金な」

 

 清公の毒舌が飛ぶ。

 

(そうだ、それでいいのだ。ここは他国のもののながく住むべきところではない)

 

 やがて、霧雨を縫うように聞こえてくる鐘の音。

 

 耕助は艀のなかにつと立ち上がると、

 「南無……」

 と、霧雨けぶる獄門島にむかって合掌した。

 

 美しくも悲しいラストシーンである。

 『獄門島』は、横溝作品の中で最も悲劇性に突出した《物語》であると私は思う。

 この詩情溢れる、だが余りにも虚しい悲劇性は、恐らく、あの〈三人娘〉に対しての《見立て》が行われたからこそなのだ。もしも、単に殺されていただけの話ならば、このラストに凝縮された哀しみや虚しさ、やり切れぬ想い、そして紙面から溢れ出る抒情は生まれてはこなかっただろう。

 『獄門島』は、所謂《本格》『探偵小説』とは一線を画している。

 はっきり言ってしまえば、《変格》の部類に入るのだと思う。

 その最大の原因は、《見立て》テーマの『探偵小説』だからだ。

 だが、それは決して、この《物語》を殺すものではない。

 寧ろ、《見立て》によって、これ以上ないというほどに《物語》が生かされている。

 《見立て》が持つ絵面の良さ、無意味なまでの情緒性が、閉鎖的な〈島〉という舞台で繰り広げられる悲喜劇に見事に溶け込んでいるのだ。

 それを〈文学性〉とまで表現してしまったら、言い過ぎだろうか。

 逆もまた真なり。

 《本格》『探偵小説』に〈文学性〉は馴染まない。

 まぁ、賛否両論が在るかもしれないが。

 だが、恐らく、ミステリー作家が書いた《本格》『探偵小説』がノーベル文学賞を受賞することはないだろう。

 〈手法〉としては、可能なのかもしれないが。

 何故なら、〈理想〉だの〈前衛〉だのといった要素は、凡そ『探偵小説』には似つかわしくないし、何よりも、最後には全てが〈解決〉されなければならないからだ。

 では、《変格》『探偵小説』の場合は、どうか。

 矢張り、こちらも無理に違いない。

 可能性としても、限りなくゼロに近いだろう。

 けれど、《変格》『探偵小説』は《本格》が示し得ないベクトルを内包している。

 それを〈文学性〉の一言で表してしまうのは乱暴かもしれないが、少なくとも、『探偵小説』を新たな角度から映し出す技法の一つであることは間違いない。

 或いは、〈脱却〉と呼ぶべきか。

 その《本格》『探偵小説』からの〈脱却〉で、どの『探偵小説』作家よりも苦悩し、また見事に〈脱却〉を果たして見せたのが、エラリー・クイーンである。

 という訳で、次回はクイーンの作品を取り上げる。

 横溝正史も『獄門島』を書くにあたって多大なる影響を受けた『Yの悲劇』だ。

 実は、この作品も《見立て》テーマの作品に分類される。〈筋書き〉殺人とも呼ばれる分野だ。本来、『獄門島』も、この〈筋書き〉殺人に入るのだが、この論説では、敢えて《見立て》として取り上げた。

 だが、二作品は、似て非なる存在である。

 ほぼ似たような構図を取り上げながら、『Yの悲劇』は、骨の髄まで『本格』《探偵小説》なのだ。しかも、所謂《ドルリー・レーン》シリーズ《X・Y・Z・最後》の悲劇四部作は、シリーズ自体が最終的なトリックへと結びつく一つの仕掛けになっており、それでも足りないかの如く、作者の《バーナビー・ロス》は覆面作家としてエラリー・クイーンに〈挑戦〉までしているのである。

 この辺りのエンターテインメント性とパズル精神の徹底さは、如何にもアメリカらしい気がする。

 

 最後の最後に〈蛇足〉として。

 《見立て》テーマの《探偵小説》を好き勝手に書きたい放題論じ放題してしまったが、実は、見事な〈論理〉と〈整合性〉で結末づけている作品が、私の記憶に一つだけ存在する。

 泡坂妻夫の《亜愛一郎》シリーズの『亜愛一郎の転倒』に収録されている『意外な遺骸』だ。銃で撃たれ、茹でられ、そして焼かれた死体に隠された〈謎〉。《あんたがたどこさ》の童謡に《見立て》られた真相を、見た目[京極夏彦の《百鬼夜行》シリーズに登場する《榎木津礼二郎》]なのに振る舞いは、その真逆バージョンという《亜愛一郎》が、ぼそぼそと見事な推理で解決する逸品である。興味のある方は、是非、ご一読を。では、次回。

〔《本格》か、《変格》か  〔横溝正史 『獄門島』を巡って 下編〕 了 

 

 

 

 

《本格》か、《変格》か  〔横溝正史 『獄門島』を巡って 上編〕

 

 はじめに 

 

 ミステリ小説に関していえば、私は、完全に翻訳ものから入ったクチである。

 生まれて初めて、1日で一冊の本を読破するという経験をしたのは、中2の時だった。本の名は、『オデッサ・ファイル』。処女作『ジャッカルの日』が世界的ベストセラーとなった英国人作家フレデリック・フォーサイスが、その2作目として上梓したポリティカル・サスペンスだ。

 さすが、〈病〉名にまで取り沙汰される〈中2〉という年頃である。『大人』な内容の、そして、ムズカシイ活字ばかりの小説であるにも拘わらず、私は、いっぺんで心を持っていかれてしまった。現実味を帯びたストーリーの面白さ、展開の妙、臨場感、そして、結末の意外性。特に、一人の老人の死から始まる〈謎〉と、それを追う主人公のカッコ良さは、私の脳髄を底の底まで痺れさせた。

 フォーサイスの『オデッサ・ファイル』は、同時期に読んだ日本のSF作家、小松左京の『果てしなき流れの果てに』と共に、生涯の読書傾向を決定づけてしまうほどの影響力を私に与えた。お蔭で、未だに、どういう形であれ、殺人だの暴力だの死だの怪異だの異常性だのが絡んでこないと、小説は、よう読めない。

 正直、当時の私の心の、いったい、どのあたりに火が点いてしまったのか。まぁ、多分、〈人が殺される物語〉が子供の頃から好きだったのだろう。実際、江戸川乱歩の《少年探偵団》シリーズなんかも片っ端から読んだけれど、だんだん物足りなくなり、最終的には同シリーズの後半になって続々と出版された『化人幻戯』や『十字路』『緑衣の鬼』『吸血鬼』『地獄の道化師』『悪魔の紋章』『暗黒星』といった大人向けの作品を子供にも読めるように書き直した作品(と言っても、相当、猟奇・残虐趣味は色濃く残っていたが)が大のお気に入りになっていった。だから、下地は出来上がっていたのだろう。人間にしろ機械にしろ、《初期設定》は、徒や疎かに出来ないという好い証左ではあると思う。

 40年程前の本屋さんは、妙な言い方だが、本当に〈本屋さん〉だった。単行本にしろ文庫本にしろ、店の中には、〈本〉が溢れかえっていた。今から思えば、確かに、良い時代だったと思う(まぁ、人間誰しも、老いを感じてくると、そんな事を口走り始めるのだろうが)。昭和40年代後半、〈高度経済成長〉は終息したとはいうものの、世の中は、どうしてどうして、結構、景気が良かった。手塚治虫の作品は、あの『ブラック・ジャック』が連載漫画として読めたし、我が国の文学界も新人・中堅・重鎮様々な作家が入り乱れて、数々の名作が生まれる土壌にあった。翻訳ものも花盛りで、私は、それらに小遣いを残らず注ぎ込んでいった。

 特に、私が重宝したのは、文庫本だ。戦後の第二次文庫ブームが始まって久しく、それこそ、本屋さんは文庫の宝庫だった。本屋さんの文庫コーナーには、主要な作品がずらりと並び、私は、右から左へと……買いたかったが、如何せん、小遣いには限りがある。それでも、今と比べると、文庫本は、本当に安価だった。読んじゃあ買い、読んじゃあ買いしてても、毎月、結構な量の作品が読めたものだ。

 私が、一番に嵌ったのは、エラリー・クイーンだった。いわゆる『国名シリーズ』及び『中途の家』における〈読者への挑戦〉は、本当に、愉しかった。いや、別に、犯人が、ズバリ的中したから『愉しかった』訳ではない。犯人なんか、どれ一つ、当たったためしはない。でも、なんか、愉快だったのだ。その余りにも意外な犯人が、エラリーの推理によって見事に導き出されて行く、あの何ページにもわたって、びっちりと書かれた謎解き箇所を読んでるだけで。S・S・ヴァン=ダインやアガサ・クリスティ、ジョン・ディクスン・カーなども読んだけれど、やっぱり、翻訳もののメインは、そして、ミステリ小説といえば、エラリー・クイーンの作品だった。

 そんな、ある日、私は、ふと、日本の推理小説も、たまには読んでみようか、と思い立った。中3か、高1ぐらいだったろうか。自分でも、SF小説っぽいものを書き始めたりしていた私は、いずれ、ミステリ小説を書くのであれば、偏りはいけない、などとエラそうに考えたりしたのだった。で、行きつけの本屋さんで、あ、これ、面白そうじゃん、と、たまたま買ったのが、横溝正史の『悪魔の手毬唄』だった。或いは、カバー表紙のイラストが、とても扇情的だったからかも知れない。勿論、何の期待も無かったし、予備知識も皆無だった。で、読み始めた。

 その時の感動を、どう表現したら良いだろう。へぇ、日本のミステリーもなかなかやるじゃん、とか、やっぱり、喰わず嫌いはいけませんなぁ、とか、そんな生易しいレベルの感動ではなかった。《卒業式の前日に、隣の席の女の子を改めて見てみたら、スッゴク好みのタイプだったことに気づき、慌てて猛アタック》的な驚愕と焦りのダブルパンチとでも言おうか。私は、一気に、横溝作品に、いや、精確には『《金田一耕助》という私立探偵と彼が手がける《怪事件》』にのめり込んで行く。

 当時は、角川文庫が『八つ墓村』に引き続き、『悪魔の手毬唄』(私は、これに引っかかった)『獄門島』『悪魔が来たりて笛を吹く』『犬神家の一族』『三つ首塔』『夜歩く』『本陣殺人事件』と、横溝正史の〈金田一〉物を続々と復刻していた。私は、片っ端から、『《金田一耕助》という私立探偵と彼が手がける《怪事件》』を読み漁った。無論、エラリー・クイーンも読み耽ったし、小松左京の作品も頻繁に文庫化されていた。一度に数冊の本を読むという悪い癖は、あの頃、身に付いたものだ。読書技術でもなんでもなく、要は、堪え性がない、ただ、それだけのことである。

 前置きが、やたら長くなってしまった。この拙い論評集の第1回目を、エラリー・クイーンにするか、金田一耕助にするか、さんざん迷ったのだが、やはり、そこはお膝元から、という訳で、金田一が手がけた事件の中でも最高傑作(と云う言い方もヘンかもしれないが)との呼び名が高い『獄門島』を取り上げることにした。

 全編にわたる独特の雰囲気といい、トリックといい、特に、その読後感の何とも言えない悲哀感は、日本推理小説史上、ピカイチだと私も思う。と同時に、何度も読み返して来て、改めて思うのだが、『獄門島』には、日本の探偵小説作品が抱える様々な課題が見え隠れしている。従来、探偵小説ほど、その時代その時代での〈危機〉を囁かれ続けて来た文学ジャンルもないのではないか、と思う。無論、その理由は、探偵小説が内包する特殊性にある。その特殊性こそが、探偵小説の魅力に他ならないのだが、一方で、その特殊性に於いて、非常に創作上の困難さが伴う。というか、身も蓋もない言い方をすれば、ツッコまれやすい作品体質なのだ。《探偵小説》というジャンルは。

 ずぶの素人の私でさえ、ちょっとミステリ小説を読もうものなら、このトリックはどーだの、その犯人はこーだの、やたら、茶々を入れてたりする。まぁ、口にするだけなら、いくらでも言えるので、ここらでひとつ、きちんと考察を重ねてみようと思い立った。その格好の教科書が『獄門島』に思えたのだ。などと、ミステリ作家でも文芸評論家でもない人間がエラソーなことを言うな、と大横溝先生に怒られてしまうかもしれないが。ここはひとつ、平身低頭、お詫びしつつ、身勝手な論考を進めてみたいと思う。

 

 【読者への提言

 

 最初にお断りしておくが、論考のテーマ上、どうしても数々のミステリー作品の内容に触れざるを得ない。要は、ネタバレである。「ある程度は、ぼやかせるかもしれない」などと高を括っていたが、やはり、無理だと気づいた。〈トリック〉、〈犯人〉、〈物語的オチ〉、何れがバレても、《探偵小説》には致命的だ。だから、若しも、各々の作品を、まだ一度も読んでいない、これから読もうと思う、読んだけど完全に忘れてしまったので、もう一度読み直そうと思う、そんな方々は、この文章を、絶対に、読まないでください。『いや、そんなのぜェんぜんッ関係ない』と言う人は、敢て無理強いはしないけれど、取り敢えず、一度は作品を読んでからにしたほうが、私は、好いと思う。良く練られた探偵小説は、良く作り込まれたゲームソフトと一緒で、一周目だけでは、そのお愉しみは半分も体験していないと言っても、過言ではないからだ。

 

【主な内容記載作品】

 ◎横溝正史獄門島』『悪魔の手毬唄』『犬神家の一族』『八つ墓村

 ◎S・S・ヴァン=ダイン『僧正殺人事件』

 ◎アガサ・クリスティーそして誰もいなくなった』『ABC殺人事件』

 ◎京極夏彦鉄鼠の檻

 ◎ウィリアム・L・デアンドリア『ホッグ連続殺人』

 ◎エラリー・クイーン『Yの悲劇』

 

 それでは、ひとつ、拙いながらも、はじめてみるとしよう。

 まずは、『獄門島』は、どんな〈物語〉なのか、からだ。

 

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 1 耕さん、あんたはあそこへ何しにいくのかね

 

 太平洋戦争終了後、ニューギニヤから復員した金田一耕助は、戦友だった鬼頭千万太の死を遺族の者に伝える為に、瀬戸内海に浮かぶ一孤島、獄門島へと向かう。

 その途中、彼は、パトロンである久保銀造のところへ立ち寄るのだが、銀造は、些かの疑念と共に、耕助に、こんなふうに訊ねるのだった。

 

「耕さん、あんたが獄門島へいくのは、ただ戦友の死をつたえるためだけかな。それならばよいが。……もし、そのほかにあんたが何か目的を持っているのなら、何か心に、いだいていることがあるのなら、わしはあんたを、引き止めたいと思うよ。獄門島って耕さん、あそこはいやな島だよ。恐ろしい島だよ。耕さん、あんたはあそこへ何しにいくのかね」

 

 そう、金田一耕助は、獄門島に、何をしに行くつもりだったのか。

 勿論、久保銀造の指摘通り、ただ戦友の死を遺族に伝えに行く為だけではない。

 その最大の動機は、獄門島を事実上支配してきた網元、鬼頭家の長男、鬼頭千万太が、あと5、6日もすれば、故国日本に帰れるという復員船上で病魔に斃れ、無念の死に責め苛まれながら金田一耕助に託した遺言の中にある。 

 

「死にたくない。おれは……おれは……死にたくない。……おれがかえってやらないと、三人の妹たちが殺される……だが……だが……おれはもう駄目だ。金田一君、おれの代わりに……おれの代わりに獄門島へいってくれ。……いつか渡した紹介状……金田一君、おれはいままで黙っていたが、ずっとまえから、君が誰だか知っていた……本陣殺人事件……おれは新聞で読んでいた……獄門島……いってくれ、おれの代わりに……三人の妹……おお、いとこが、……おれのいとこが……」

 

 この言葉の意味を、その儘に取れば、《おれが生きて帰らなければ、妹たちが殺されてしまう、だから、有名な探偵である金田一君、おれの代わりに、妹たちが殺されてしまわないように助けてやってくれ》ということになろうか。

 金田一耕助は、彼の遺言通り、確かに、獄門島へと渡る。だが、この臨終に際して頼まれた依頼(と言って良いのかどうか、その後の耕助の言動を見ると、必ずしも、そう取ってはいないようなのだが)は、悉く、失敗する。〈妹たち〉は、全員、殺害されてしまうのだ。然も、金田一探偵の努力も空しく、とは言い難い状況の中で。

 金田一耕助は、獄門島に来た本当の理由について、〈妹たち〉の二人までが殺されてもなお、『まだその時期に達していない』『それ(筆者注:本家の千万太君に頼まれた事)を打ち明けることによって、島の住人のだれかに、どのような迷惑がかかるまいものでもない』と思い、捜査に来島した朋友、磯川警部にすら話そうとしない。彼が、漸く、その点について語るのは、〈妹たち〉全員が殺された後、事件の解決に際してである。

 この辺りの金田一耕助の振舞いや行動については、いろいろと批判は多いようである。実際、何の確証もない、死に瀕した病人の世迷言と取れなくもない言葉ではある。また、当初は好奇心のみに衝き動かされて来たとしても、それはそれで理解できる。だが、実際に一人殺され、剰え、二人目も殺されている訳で、それでもなお、特段、警鐘を鳴らさないというのはいかがなものか……と、まぁ、そう指摘されてしまうのも致し方ないだろう。況してや、名探偵の誉れも高い《金田一耕助》なのだし。

 事実、江戸川乱歩は、「あらゆる点に於て探偵小説趣味を満喫せしめる巧緻の大作である」と大絶賛しながらも、『三つの殺人に夫々異なった三つのトリック』を評価した上で、それら『殺人』の、やや無理矢理な発生状況と殺人動機の必然性については、些かの不満を漏らしている。

 ここで、改めて問おう。

 耕さん、あんたは何しに、獄門島へと渡ったのかね。

 私は、つい、こう思ってしまう。

 犯人の思惑に、加担するためだ、と。

 

 3 私説《見立て》類別 

 

 エラリー・クイーンやS・S・ヴァン=ダインといった翻訳ミステリから、この《探偵小説》という世界に入っていった者としても、前述した通り、純粋に、横溝作品は面白かった。一番最初に読んで感銘を受け、金田一耕助の探偵譚の虜になる切っ掛けとなった『悪魔の手毬唄』などは、事件の舞台となる鬼首村(そのネーミングが、また、秀逸なのだ)に伝わる手毬歌の歌詞通りに人が殺されていくのだが、同様のテーマで描かれた傑作、S・S・ヴァン=ダインの『僧正殺人事件』よりも、引き込まれたし、寧ろ、面白さからいえば『悪魔の手毬唄』の方が上だった。 

 《見立て》の方法として、最も良く取り上げられてきたのは、《童謡》だろう。

 イーデン・フィルポッツ(代表作は、『赤毛のレドメイン家』)が別名義〈ハリントン・ヘクスト〉で書いた『誰が駒鳥を殺したか』(但し、この作品は〈テーマ〉というより〈モチーフ〉に近い)、クローズド・サークル(所謂、《孤島》もの)の代表作でもあるアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』や《ミス・マープル》シリーズの傑作『ポケットにライ麦を』、エラリー・クイーンの所謂《ライツヴィル》物の一つ『ダブル・ダブル』、そして、S・S・ヴァン=ダインの『僧正殺人事件』。これらに共通して使われているのは、〈マザー・グース〉の名で総称される英米の伝承童謡だ。例えば、クリスティの『そして誰もいなくなった』では、こんな〈マザーグース〉が引用される。

  

  10人のインディアンの男の子 食事に出かけた
  一人が咽喉を詰まらせて 9人が残った

  9人のインディアンの男の子 夜更かしをした
  一人が朝寝坊をして 8人が残った

  8人のインディアンの男の子 デヴォンに旅した
  一人がそこにとどまり 7人が残った

  7人のインディアンの男の子 薪を割った
  一人が真っ二つになって 6人が残った

  6人のインディアンの男の子 蜂の巣で遊んだ
  一人が蜂に刺されて 5人が残った

  5人のインディアンの男の子 訴訟を起こした
  一人が裁判所にいって 4人が残った

  4人のインディアンの男の子 海に出かけた
  一人がニシンに飲まれ 3人が残った

  3人のインディアンの男の子 動物園にいった
  一人が熊に抱きつかれ 2人が残った

  2人のインディアンの男の子 日光浴をした
  一人が熱で焦げて 一人が残った

  一人のインディアンの男の子 一人ぽっちになった
  そして自分で首をくくって 誰もいなくなった

 

 横溝正史が、日本には、この手の童謡がないものだから、『悪魔の手毬唄』を書くに際しては、〈鬼首村手毬唄〉を自ら作らざるを得なかったという話は(〈探偵小説〉好きの間では)つとに有名である。高木彬光も墨野隴人シリーズ『一、二、三-死』で、四国に伝わるという〈数え歌〉を用いている。無論、〈童謡〉に拘泥する必要はない。〈絵画〉でも良いし、〈夢〉でも良い。同じく、横溝正史の『犬神家の一族』では、犬神家に代々伝わる三種の神器(斧、琴、菊)が用いられ、《菊人形に載せられた首》《琴糸による絞殺》《斧に因る撲殺》が、夫々、《見立て》られていたし、後述する『八つ墓村』は、〈八つ墓様の祟り〉が、その《見立て》の根幹である。高木彬光が『呪縛の家』で使ったのは〈予言〉だし、『大東京四谷怪談』では、〈四谷怪談〉そのものがモチーフになっている。 

 非常に乱暴な枠づくりをさせて貰えば、どんな素材を使おうと、被害者殺害後、その遺体に凡そ異質な形での〈演出〉(まぁ、『殺人』自体が、既にして、十分、〈異質〉ではあるのだが)が為されていれば、それは、《見立て》殺人ということになるのだろう。飽く迄も私見だが、その手の《見立て》殺人の場合、形態としては、次の二つに大別されると思う。

 

 ①《見立て》自体に(大なり小なり)トリックがある。つまり、殺害した被害者を、

  何らかの形で《見立て》る必要があった。

 ②《見立て》自体にトリックがない。つまり、殺害した被害者が、《見立て》ら

  れようが、られまいが、犯人には関係ない。

 

 ①の代表作は、やはり、アガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』かもしれない。〔A〕で始まる地名の場所で、イニシャルが〔A.A〕の人物が殺害される。続いて、〔B〕で始まる地名の場所で、イニシャル〔B.B〕が、そして、〔C〕で始まる地名の場所では、〔C.C〕が殺される。その傍らには、必ず、〈ABC鉄道案内〉が置かれていて……というストーリーだ。

 犯人は、本来の動機(殺害したいのは、そのうちの1人だけ)を隠す為に、こんな手の込んだ連続殺人を〈演出〉する。勿論、それらしい人物を犯人に仕立て上げ、捜査を攪乱して、自分を蚊帳の外に置こうとするのだが、エルキュール・ポアロに予告状を出すという余計な駄目押しをしてしまったお蔭で、結構、早い段階で真相を看破されてしまう。

 『或る法則に則って人が殺されてゆくが、本来の目的は、予想外のところにある』というトリックは、《見立て》殺人の面目躍如といったところだろうか。故に、様々なアレンジを加えられた作品が数多く創られている。妙な言い方かもしれないが、この手の《見立て》を取り入れた作品は、『一発屋』的要素に加え、〈やっちゃった者勝ち〉的な感が強い。つまり、一度使われてしまうと、どうアレンジしようが、二番煎じ三番煎じの観を否めないのだ。

 横溝正史が書いた『八つ墓村』も、同様のトリックを用いている。だが、トリックと言うよりも、〈八つ墓様〉の〈崇り〉というシチュエーションが前面に出過ぎていて、多人数が殺害される理由と実際の動機、そして、そこに〈八つ墓様〉の〈崇り〉を持ち込む理由とが、今一つ噛み合っていないように感じる。物語を膨らませるには良い材料なのだが、トリックとしては、やや物足りない。それも、〈やっちゃった者勝ち〉的な要素を持った《見立て》作品の性(さが)なのかもしれない。だから、『ABC』を逆手に取ったウィリアム・L・デアンドリアの『ホッグ連続殺人』などは、実に巧いなぁ、と思えてしまうのだろう。

 一方の②は、例えば、前述した『犬神家の一族』や京極夏彦の『鉄鼠の檻』のように、犯人の与り知らないところで《見立て》られてたりする場合が当て嵌まる。犯人には、捜査を惑乱させる意図は、これっぽっちもないが、第三者が、いそいそと、勝手に手を加えて行く。直面する警察や探偵、そして、読者は、それなりに惑わされることになる。穿った言い方をすれば、どうせ下手な《見立て》をしても取って付けた感が出るだけなので、なら、いっそのこと、犯人以外の登場人物に取って付けさせてしまえ、と言う訳だ。これなら、トリックに左右されない分、何でも有りである。 

 また、①と②の中間に入るような作品も、少なくない。『悪魔の手毬唄』や『僧正殺人事件』のように、犯人の心理的動機に深く根差した《見立て》殺人がそうだ。犯人の趣味・嗜好。兎に角、《見立て》たかった。だから、そこにトリックが絡む場合もあるし、絡まない場合もある。実は、『獄門島』も、この部類に入る。そう言えば、トマス・ハリスが造形した《人食い》ハンニバル・レクター博士も、似たような殺人行為をしていたと思う。まぁ、博士の場合は、《見立て》というより《センス》と呼ぶべきなのかもしれないが。

 

 4 《見立て》は誰のものか 

 

 さて、今回、俎上に載せさせて頂いた『獄門島』の《見立て》は、〈俳句〉である。

 

  鶯の身をさかさまに初音かな   

  むざんやな冑の下のきりぎりす  

  一つ家に遊女も寝たり萩と月   

 

 『鶯』は宝井其角、『きりぎりす』と『一つ家』が松尾芭蕉の句だ。

 第一の殺人では、被害者は梅の古木から逆さまに吊り下げられ、二人目は、遺体が吊り鐘の下に置かれている。そして、三人目は、『一つ家』と呼ばれている家屋の中で巫女姿で殺害され、周囲には萩の花がばら撒かれている。

 先にも書いたが、被害者が殺害後、これらに《見立て》られる一番の理由は、『犯人の趣味・嗜好、兎に角、《見立て》たかった』からだ。特異な点は、それが『真犯人』の〈遺志〉だ、という点である。

 横溝正史は、後年、小林信彦との対談(『横溝正史読本』小林信彦・編 角川書店刊)の中で、『獄門島』を書くにあたっては、ヴァン=ダインの『僧正殺人事件』とエラリー・クイーンの『Yの悲劇』に強く影響されていると打ち明けているけれど、作品全体の流れとして、より色濃く出ているのは、後者の『Yの悲劇』なのかな、と私には思えてしまう(特に、象徴的なのは『鈍器(ブラント・インストルメント)』と『てにをはの問題』の方なのだが、今回は触れない)。『Yの悲劇』は、故人が残した〈殺人ノート〉を読んだ人物が面白半分に実行する(なんか、こう書くと折角の名作も、物凄く安手な代物に聞こえる)ところが、物語が持つ謎の解明や、その伏線を際立たせる効果を果たしているのだが、前述した通り、『獄門島』も、事件の《真犯人》は実行犯とは別の位置に存在する。

 

「誰です、そりゃ……その恐ろしい人物は……?」

「去年、なくなった嘉右衛門隠居!」

 

 金田一耕助は、磯川警部の問いかけに、そう答える。既に死んでいる千万太の祖父、鬼頭嘉右衛門が真の犯人だと言うのだ。然も(ここは、敢て、〈然も〉と言わせて貰おう)『獄門島』では、三句の〈俳句〉に合わせて、三つの殺人が起こるのだが、夫々の句に犯人は、一人ずつ、つまり、犯人は全部で三人いる。つまり、金田一耕助が名指しした《真犯人》鬼頭嘉右衛門からご指名を受けた三人の実行犯が、嘉右衛門の手足となって殺人を犯す。この物語は、そういう仕掛けなのである。 

 では、『獄門島』に於ける〈殺人〉の動機、即ち、《真犯人》鬼頭嘉右衛門の本懐とは、何だろう。そして、何故、三人の実行犯は、唯々諾々と、既に、この世に居もしない人物の言いなりになって、殺人など犯してしまったのだろう。

 死に瀕した鬼頭嘉右衛門にとって、〈本鬼頭〉という血族の継続、それも、ある種〈優性主義〉的な意味合いを持つ存続こそが、その最大の願いであった。

 

「無理もないのじゃ。かんじんの跡取り息子は、バカをつくしたあげくがあの調子、大事な孫はふたりとも、戦争にとられて生死もわからぬ。あとにのこったのは女ばかり、それも本家の三人ときたら、みんな一人まえではない。そこへもって来て分鬼頭のお志保が、鵜飼という若い衆をつかってチョッカイを出す。嘉右衛門さんは死ぬにも死ねぬ(以下略)」

 

 実行犯の内のリーダー格にあたる人物が、当時の嘉右衛門を振り返って、このように述懐する。この嘉右衛門の苦悩の中で、今回の〈殺人〉に結びつく最大の要因は、 『大事な孫はふたりとも、戦争にとられて生死もわから』ない状態、その一言に尽きる。この一要因さえなければ、鬼頭嘉右衛門が、そこまで絶望的な振舞いに及ぶ必要は何もなかったのである。『獄門島』に於ける犯人たちを翻弄するのは、《戦争》という大きな歴史の流れが齎した、この実にあやふやな状態なのだ。

 若しも、《戦争》がなければ、鬼頭千万太は間違いなく〈本鬼頭〉を継承しただろう。嫁を取り、子を生し、〈本鬼頭〉安泰に一役も二役も買った筈である。事実、《戦争》を介してすら、千万太は必ずや生きて帰り、〈本鬼頭〉を継ごうと考えていた。勿論、そうしなければ、『三人の妹たち』が祖父の手に拠って『殺される』可能性があると知っていたからだが、金田一耕助ともウマが合い、その正体すら事前に知っていたところを見ても、中々の逸材者ではなかったと推察出来る。仮に、そんな祖父の狂気じみた思惑など存在しなくとも、無事《戦争》から生還した暁には、〈本鬼頭〉を背負って立つ網元として台頭したに違いない。

 角度を変えれば、この『獄門島』という物語は、《戦争》を狭間に置いて、死に際したふたりの者の遺志がぶつかり合う壮大な物語なのだろう。結局は、全ての思いが空回りし、無情な悲喜劇として幕を閉じるのだが、その悲喜劇を引き起こす張本人こそが、《戦争》なのである。

 思えば、決して評判が良いとは言いかねる腹違いの『妹たち』を、自らの死に際してまで気にかける千万太の、なんと優しい心情の持ち主であることか。 

 一方の、妄念とも言える心情に凝り固まった嘉右衛門もまた、血も涙もない、冷酷無慈悲な人間だったのかというと、実は、そうでもない。

  鬼頭嘉右衛門が立てた〈殺人計画〉が発動する為の条件は、たった一つだ。

 『戦争に取られてる孫の内、〈本鬼頭〉承継者第一等の千万太が死亡し、その従弟に当たる鬼頭一のみが生還した場合』、その時だけである。

 嘉右衛門は、千万太が生還しなかったら、一に〈本鬼頭〉を継がせる腹積もりだった。その場合、本家筋の血を引く『三人の妹たち』は邪魔以外の何物でもないので、これらを排除してしまう。だが、若しも、千万太も一も、両方共が戦死してしまったのなら、その時は仕方がない『三人の妹たち』の内の一番上の娘に養子を貰い、その者に〈本鬼頭〉を継がせるつもりだった。

 この辺りは、金田一耕助も誤解していたようである。千万太も一も死亡していた場合でも、『三人の妹たち』は殺害され、一の妹に婿を貰って〈本鬼頭〉を継がせる計画だと推理したのだが(耕助が、一の妹早苗に好意を寄せていたのは、まず間違いない)、『嘉右衛門隠居』は、そこまで〈本鬼頭〉の優生性に拘ってはいなかったのである。

 

「それじゃ、千万太君が死んで、一さんが生きている場合にだけ、今度のような事件が起こったのですね。もしふたりとも死んでいたら、三人娘は殺されずにすんだのですね」

 

 金田一耕助は、犯人の一人にこう問い質す。そこに秘められた驚きと悲哀は、自らの推理の過誤にあるのではなく、また別の悲劇性に裏打ちされた感情だったのではあるが。

 いずれにしろ、鬼頭嘉右衛門もまた、歴史という無慈悲な時の流れの犠牲者だったりするのではないか、と私には思えて仕方がない。では、そんな嘉右衛門の手足となって働いた者たちの真意とは、一体、何だったのか。

 死ぬ2日前、嘉右衛門は、実行犯に定めた三人を枕元に呼び寄せ、自らの〈殺人計画〉を鬼気として語ると、夫々に、俳句が記された色紙を渡す。

 

『……さあ、これをおまえたちにかたみにする。これを見たら、わしの遺言を忘れるようなことはよもあるまい。嘉右衛門さんはそこでまた、ひとりひとりの殺しかたをくりかえしくりかえし説明すると、なあ、頼むぞ、拝むぞ、もし、わしの遺言に違背したら、七生までもたたって見せる……』

 

 〈言霊〉という言葉がある。或いは、〈呪い〉というシステムも同様なのかもしれない。人間の言葉に、どれ程の力があるのか。それは、言葉を発した人物の力量も、当然影響するのだろうが、寧ろ、浴びせられた人物の心情や動向如何で左右される事の方が大きいだろう。詰り、言葉に霊性を持たせるのも、〈呪い〉という力場を持たせるのも、全て、言葉を受け入れた側の問題なのだ。

 物語の中では、その言い換えとして、『封建的な、あまりにも封建的な』という表現が用いられている。網元として〈獄門島〉どころか、周囲の島々をも巻き込んで君臨していた〈太閤〉鬼頭嘉右衛門の残した言葉とはいえ、そこに何者も逃れられない呪術的な魔力が宿っていた訳ではない。事実、実行犯たち三人は、『なんの、嘉右衛門どのは気が狂うていたのじゃ』と、その遺言を話半分として聴いていた節がある。(『節』などという曖昧な表現を用いたのは、結局、三人は計画を実行に移してしまったからだ。少なくとも、『NO』という選択肢は、彼らの内の誰一人として持ち得なかったようだ)

 嘉右衛門は、まともな判断が出来ない状態にあったから、〈殺人計画〉に必ず必要な〈或る物〉が、今、〈獄門島〉にはないという事を失念している。〈吊り鐘〉だ。これもまた、〈戦争〉の所為で国に供出させられてしまった。つまり、島には、〈吊り鐘〉がひとつもない。当然、〈むざんやな冑の下のきりぎりす〉の《見立て》も出来ない。命じられた俳句の《見立て》の一つが出来ないのなら、他の二つも出来なくたって何の問題もなかろう。これが、彼らが構築した〈逃げ口上〉だった。

 だが、〈吊り鐘〉は鋳つぶされもせず、島に戻って来ることになった。

 剰え、一の生還と千万太死去の知らせが、ほぼ同時に齎される。

 

『わしは吊り鐘をもらいにいった。吊り鐘は鋳つぶされもせずに残っていよった。そのかえるさに舟の中で竹蔵から、一さんの生きていることをきいた。すぐそのあとじゃったな、金田一さん、あんたが千万さんの死を報せてくれたのは、……なにもかも運命じゃな。千万さんの死と一さんの生還、そして、吊り鐘……わしは嘉右衛門さんの執念が、生きてわしらを見守っているのをまざまざとかんじた。三つのうちのどれひとつ欠けていても、三人娘は殺されずにすみよったのじゃが、そろいすぎたよ、条件が……千万さんの死、一さんの生還、そして吊り鐘……』

 

 こう述懐した実行犯の一人は、こんな事も言う。

 

『それにまた、一年のあいだ後見して、とっくりと見て来た三人娘、あれはもうさかりのついた牝猫みたいなもので、ここで鵜飼という男を、なんとかしたところで、第二、第三の鵜飼があらわれるであろうことは、火をみるよりもあきらかじゃった。これはもう、死なせたほうが本人たちのためにも慈悲、世間のためにもなろうと思うた』

 

 〈鵜飼〉というのは、どうにかして〈本鬼頭〉を手懐けようと計る〈分鬼頭〉(正確には、そこのおかみ)が、三人娘に対して(特に、長女をターゲットにして)送り込んだ美青年である。この証言は、明らかに、付け足しだろう。何度も言うが、三人の実行犯に〈拒否〉の選択は無かったようだ。詰り、一度、条件が整ってしまったら、どんな事があろと〈三人娘〉は死なねばならなかったのである。

 逆に、三つの必要条件のうち、一つでも整わなかったら、〈三人娘〉は殺される事は無かったのだから、そこに娘たちの行状云々が入る理屈は、実は、おかしいのである。単純に言えば、〈三人娘〉は、『死なせたほうが本人たちのためにも慈悲、世間のためにもなろう』から殺されたのではない。鬼頭嘉右衛門が、そうしろ、と言ったから、単に殺されただけなのだ。

 三人の実行犯たちが、嘉右衛門の〈殺人計画〉通りに事を為した理由を、ここに改めて挙げるなら、次の四項目になるだろうか。

 

 ①〈太閤〉鬼頭嘉右衛門の存在感。

 ②その往生際の余りの悲惨さへの憐憫。

 ③運命。或いは、《時》の偶然が招いた必然。

 ④『封建的な、あまりにも封建的な』土壌。

 

 特に大きな割合を占めるのは、矢張り、④だ。この〈封建的〉とは、非常に単純な、だが極めて強い絆を持つ上下関係(〈上〉鬼頭嘉右衛門の命令は〈下〉実行犯たちには絶対の権限を持つ)を指す。①にしろ②にしろ、④という土台骨があってこその心情であり、影響である。③は、一見、犯行を決定づけたようにも思えるが、実は単に後押しをしただけに過ぎない。

 鬼頭嘉右衛門と、三人の実行犯の〈封建的〉な繋がりを示す恰好の証左が《見立て》である。〈三人娘〉は、嘉右衛門の〈殺人計画〉が示す通り、逆さに吊り下げられ、吊り鐘の下に置かれ、一つ家で萩の花を振り撒かれ、殺されていた。

 前述した通り、江戸川乱歩は、この『獄門島』に〈常識論的な納得の行かなさ〉を感じていた。別に、殺人罪を犯さなくとも、もっと穏便な方法がいくらでもあっただろうと言うことらしい(角川文庫版『獄門島』解説より)。確かに、三人の人間を殺害するのに、わざわざ手の込んだ真似をする必要はない。絶海の孤島とは言わないまでも、四方を海に囲まれ、急峻な崖がそそり立つような島なのである。遣り様は、幾らでもあっただろう。転落死。溺死。行方不明。火事に見せかけての焼死。それこそ、一石二鳥を狙って、〈鵜飼〉との〈情死〉なんて手もある。

 だが、実行犯たちは、恰も、プログラミングされたロボットの如く(いや、最新の人工知能を搭載したアンドロイドなら、もう少し逡巡したり、考えたりするだろう)律儀に、〈嘉右衛門隠居〉の命に従った。例え、どんなに手が込んでいようと、鬼頭嘉右衛門の示す〈殺人計画〉通りに、事を起こす。彼らにとって、その行為自体が重要なのだ。だから、どれ程、現実味がなかろうと、どれ程、困難さが伴おうと、〈三人娘〉は吊るされ、吊り鐘の下に置かれ、一つ家で殺されねばならなかった。

 何もかもが、嘉右衛門の風趣に応える為。そう言い換えても、良いのかもしれない。だが、実は、ここでもう一つ、重要な役割を担う存在が必要になる。この〈嘉右衛門の風趣〉を解読できる人物である。今回、その役割を割り振られた人物こそ、名探偵《金田一耕助》に他ならない。

 若しも、金田一耕助が現れなければ、この〈獄門島〉の事件は、どういう展開になっていたのだろう。一の生還。千万太の死。〈殺人計画〉の発動。ここまでは良い。〈三人娘〉が、鬼頭嘉右衛門発案の《見立て》殺人に拠って、それぞれ殺害される。では、それらの《見立て》は、一体、誰の為に、どのような意味を齎すのか。

 梅の古木に吊るされて娘が殺されている。吊り鐘の下に殺された娘が入れられている。一つ家と呼ばれる家屋の中で娘が殺され、その周囲に萩の花弁が振り撒かれている。為るほど、目を引くだろう。不思議がられるに違いない。また、江戸川乱歩が絶賛した通り、この三つの《見立て》殺人は、それぞれがアリバイトリックにも寄与している。各実行犯が容疑者リストから外される為にも、《見立て》は行わなければならない。

 だが、実際の話、第三者にとって、それらは、どう映るのか。実行犯たちは、満足かもしれない。発案者〈嘉右衛門隠居〉の指示通り、事を成し遂げたのだ。況してや、それがアリバイ工作にもなるのだとすれば、《見立て》は二重に意味がある。元々、彼らは、ロボットのような役割なのだ。何も考えず、鬼頭嘉右衛門の計画通りに、手足を動かしていれば、それで良いのだから、何も考える必要はないのである。

 或いは、嘉右衛門の風趣を面白がる感情も在ったのかもしれないが、それを匂わせる発言や行動はない。少なくとも、彼らにとっては、実行する、その行為自体にこそ重要性が存した。では、事件を目の当たりにした島民や、捜査に当たった警察官たちは、どうだろう。果たして、この死体が描く奇妙な構図が、各々、其角や芭蕉の句に《見立て》てあると看破出来るだろうか。或いは、嘉右衛門の雑俳(俳諧から傍系として発展した川柳や冠付けといった通俗文芸の総称)の師匠的立場だった〈床屋の清公〉あたりなら、指摘出来なくもないだろうが、どうも、その可能性は低そうだ。少なくとも、今回の〈獄門島〉の事件では、あれだけ金田一耕助と親しく喋りながら、死体が取らされていた構図と俳句との共通性に気付いていた節は見当たらない。

 ここで重要な点は、果たして《見立て》は《見立て》られずして、その役割を果たす事が出来るか、である。この問いを逆説的に言えば、なぜ、〈三人娘〉は俳句に《見立て》られて、殺されなければならなかったのか、となるだろう。〈獄門島〉の場合、《見立て》た理由は、極めて簡単だ。〈嘉右衛門隠居〉が、そうしたかったからである。では、その《見立て》は、全くの理解を得ずして《見立て》と呼べるのだろうか。 

 例えば、バラバラに切断された男の死体が、部屋で見つかったとしよう。切り取られた頭は、ベッドの下、手足はバラバラにされて、部屋中に転がっている。警察は、異常者の犯行だと決めつけ、マスコミは『第二の切り裂きジャック出現』などと囃し立てる。だが、犯人の思惑は、全く別の所にある。

 

   一人の男が死んだのさ
   すごくだらしの無い男
   頭はごろんとベッドの下に
   手足はバラバラ部屋中に
   ちらかしっぱなしだしっぱなし

 

 これは〈マザー・グース〉にある童謡だ。犯人は、この歌詞通りに殺人を犯した。

 何故? 犯人にとって、それが非常に重要だったからだ。まぁ、この際、理由は何でもいい。殺したかった人物や動機、犯行現場、犯行時刻等を判らなくするためのミスディレクション、部屋が密室状態なら、その密室を形成するための方策として、或いは、唯々、捜査を攪乱するためだけでもいい、兎に角、犯人には、そうする必要があった。では、その場合、〈マザー・グース〉の歌詞による《見立て》は、第三者に、どの程度まで、気づいて貰う必要があるのだろうか。

 捜査の攪乱を目的とするならば、当然、気づかれる事を前提としている。では、犯行に伴うトリックに関与する場合はどうか。この場合は、特に、大勢に知らしめる必要はない。大体、〈獄門島〉でもそうだったが、《見立て》への追及は、その儘、真相の暴露へと繋がる可能性が高い。では、気づかれぬに越した事はないのか。

 身も蓋もない言い方をしてしまえば、それでは、〈物語〉が立ち行かない。いや、そう言ってしまうと、乱歩の〈常識論的な納得の行かなさ〉と同等の物言いになってしまうのだが、この際、もう少しだけ、そんな〈常識論的な〉角度からの考察に拘ってみるのも面白いのかもしれない。或いは、その部分にこそ、〈探偵小説〉が抱えるジレンマが浮き彫りになっている気がするのだ。

 

   《本格》か、《変格》か  〔横溝正史 『獄門島』を巡って 上編〕 了