『本格』か、『変格』か 〔横溝正史『獄門島』を巡って 下編〕

 

  5 《見立て》が背負う十字架

  

 《見立て》殺人を正面から扱った探偵小説の中でも、その先駆性といいストーリー性といい、最も著名な作品は、矢張り、S・S・ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』であろう。

 

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 物語は、ジョジフ・コクレーン・ロビンという人物が弓矢で殺害されたという知らせが探偵役のファイロ・ヴァンスの元へと齎される処から始まる。

 次なる犠牲者は、ジョン・E・スプリッグという大学院生だ。彼は〈小さな鉄砲〉で〈かつら〉(頭)の〈まん中〉(頭頂部)を撃ち抜かれて殺される。

 三人目は、〈せむしのふさぎや〉さんと近所の遊び仲間である子供たちから慕われていた変わり者の天才数学者、アドルフ・ドラッガー。彼は、慣れ親しんだ公園の高い壁から墜落死する。

 やがて、半ば一連の殺人事件の犯人と目されていた数学者でチェスの名人でもあるジョン・バーディーがトランプカードを組み立てて作った〈家〉の傍らでピストル自殺を遂げる。

 事件は一旦は収束したと思われたのだが、〈せむしのふさぎや〉ことドラッガーと仲が良かったマデレーンという小さな女の子が誘拐される事件が発生するや、ヴァンスの活躍により事態は急変、軈て物語は驚愕の幕引きへと雪崩れ込む。

 連続する凶悪事件を包み込むのは、〈マザーグース童謡〉だ。 

 ジョジフ・コクレーン・ロビン即ち《コック・ロビン》の殺害に重ね合わされたのはご存知《コック・ロビンを殺したのはたあれ》。私は、正直、魔夜峰央の『パタリロ』のアニメ・エンディングで流れていた『クック・ロビン音頭』で知ったクチですが。

 まぁ、それはそれとして。

 二人目のジョン・E・スプリッグには、こんなマザーグース童謡が用いられる。

 

 小さな男がおりました

 小さな鉄砲持ってました

 たまは鉛で、鉛のたまで

 ジョニー・スプリッグ射ちました

 かつらの真ん中射ちました

 かつらはふっとぶ、とぶおつむから

 

 〈せむしのふさぎや〉さんのドラッガーは、《ハンプティ・ダンプティ》だ。

 彼は、マザーグース童謡に登場するキャラクター(卵を擬人化した姿で表現される)《ハンプティ・ダンプティ》同様、《高い塀》から落ち、二度と《もとにはもどらない》。

 ジョン・パーディーが建てたカードの〈家〉も、マザーグース童謡に出てくる詩である。「これはジャックが建てた家」から始まり、どんどん歌詞が繋がって行く〈積み上げ詩〉だ。

 マデレーンの誘拐事件は、《かわいいマフェット嬢ちゃん》に則って行われる。

 

 かわいいマフェット嬢ちゃんは

 芝生のうえに坐ってた

 お乳のお菓子を食べていた

 そこへ大きな蜘蛛がきた

 のそりとそばに坐りこむ

 びっくり嬢ちゃん逃げ出した

 

 勿論『僧正殺人事件』に於ける〈マザーグース童謡〉の意味合いも、単なる《もじり遊び》の域を遙かに超える。

 ファイロ・ヴァンスは、一連のマザーグース殺人の犯人は〈数学者〉であると断じた上で(その辺りの論説は、長くなるので割愛する)、尚且つ、その〈数学者〉は〈あまりにも真剣な論理的思索と釣合いをとるために、その反動として、もっとも空想的な、気まぐれな行動〉に出た〈数学者〉である、と分析する。

 『長期間にわたって、大きな、頭脳の緊張をつづけた後には、その反動は、まったく逆の形をとる――ということは、この上もないまじめな、いかめしい人間が、この上もなく子供っぽい遊戯に捌け口を求める』ようになるのだ、とヴァンスは説くのである。

 穿った言い方をすれば、マザーグースの歌詞通りに殺害される被害者たちは、結局は、ファイロ・ヴァンスに〈真犯人〉を導き出させるための《心理分析的証拠》でしかない。と同時に、後述するのだが、〈真犯人〉にとっても、ヴァンスの一連の推理的行動は必要不可欠なものなのである。

 『獄門島』の場合、一連の奇妙な殺人構図が俳句の《見立て》であると金田一耕助が気付くのは、物語の後半である。その発見は犯人(のうちの一人)の確定にも繋がって行く(所謂《てにをはの問題》)のだが、三人の被害者が出て、漸く《見立て》に気付くという体たらくさは既に述べた通りである。

 一方、『僧正殺人事件』では、その端緒から〈マザーグース童謡〉との関連がファイロ・ヴァンスによって示唆される(盟友であるニューヨーク州地方検事のジョン・F・X・マーカムなどは最初のうち、全く相手にしないが)。マーカム地方検事からの電話で事件を知ったヴァンスは、あれこれと書物を調べ回った挙句、こう所感を漏らす。

 

「そんなことってあり得ない」とヴァンスは自分にいいきかせるかのように抗弁した。「あまりにも風がわりだ。あまりにも残忍だ。あまりにもひねくれすぎている。血まみれのお伽ばなしだ。――いびつな世界だーーいっさいの合理性が倒錯してる……想像もつかない。話にならない。まるで悪魔の魔法だ、妖術だ、奇術だ。正真正銘の精神錯乱だ」(本文より。井上勇訳/前掲したマザーグース童謡も同書より引用しました) 

 

 それでも足らぬと言わんばかりに、《僧正》を名乗る犯人自らが事件現場の郵便受けや新聞社に、この殺人事件は〈マザーグース童謡〉の歌詞通りに行われましたと喧伝する手紙を投げ込んだり、送り付けたりする。

 そんな犯人の行為を、ファイロ・ヴァンスはこんな風に論じたりもする。

 

「しゃれというものは、人にわかってもらわねばならぬものだ」とヴァンスは答えた。「しゃれの値打は、それを聴くものの耳の如何によって定まる。それに、今度の事件の場合は、露出症の衝動も加わっている」(本文より。井上勇訳)

 

 まさに、ヴァンスの言う通りだ。『しゃれ』即ち《見立て》は《見立て》て貰わなければ《見立て》として成立しない。と同時に、そこに何らかのトリックが隠されているのならば、《見立て》た者は、どうしても誰かに《見立て》て貰わなければならないのである。

 例えば『僧正殺人事件』の《見立て》の背後に張り巡らされたトリックは、偽の〈犯人〉へのミスリードだ。『獄門島』の場合は、《見立て》に用いられた釣鐘や鈴、或いは死体そのものが、アリバイ工作の〈小道具〉として上手に活用されている。真の〈犯人〉側から見れば、これらの仕掛けに掛かって貰う為にも、仮に真相を暴露してしまう危険性を犯しても尚、《見立て》の存在に気付いて貰わなければならないのである。

 その役を(意識的にも無意識的にも)任じているのが、他でもない金田一耕助やファイロ・ヴァンスなのだが、この〈探偵役⇔犯人〉の関係性は、実に不条理であり、不健全(敢えて、この言葉を使わせて貰うが)極まりない。

 何故なら、片や、決して捕まりたくない(或いは、少なくとも捕まらないようにトリックを弄しようとする)〈真犯人〉、片や、その〈真犯人〉の提供した《謎》を解き、〈真犯人〉を暴こうとする〈探偵〉役、そのベクトルの全く違う二人が、恰も協力し合うかの如き関係性が生まれてしまうからだ。

 この不条理且つ不健全な関係性こそが、大乱歩謂う処の 〈常識論的な納得の行かなさ〉に他ならないのではないか、と私は考える。

 元来《探偵小説》自体が、多かれ少なかれ、そんな不条理且つ不健全な構図を描かざるを得ない小説ジャンルではある。《探偵小説》の中で提示された《謎》は最終的に解かれなれば《探偵小説》は成り立たないし、その為にこそ〈探偵〉役は存在する。従って、何度か述べてきた通り、それらの《謎》は、全て、〈探偵〉が〈真犯人〉を導き出す為の《証拠》乃至は《材料》へと置き換えられる。かなり乱暴な言い方だが、《探偵小説》に於いては〈真犯人〉は捕まる為に《謎》を現出させるのである。

 従って、これらの《謎》が、深く、濃く、然も単純明快(解明した時に無理がない)で、〈真犯人〉との距離感が心理的にも、また、物理的にも離れていればいるほど(この場合も何らかの形の『無理の無さ』が求められる)、その《謎》が解き明かされ、〈真犯人〉が指摘された時のカタルシスは強い。

 この二者(若しくは〈探偵〉を加えての三者)のバランスが《探偵小説》には重要なのだ。《探偵小説》の読者は、謂わば、法と正義の象徴とされる天秤を持つ女神《テミス》のような存在だろう。如何に《謎》が不可思議性に富んでいたとしても、矢鱈複雑で小難しい説明が必要だったり、折角、高いクオリティの《謎》が、当に快刀乱麻を断つが如く解明されても、《真犯人》が明らかに最初から怪しい人物(確かに、その手の『態とハズす』系《探偵小説》もあるにはあるが。例えば、坂口安吾の『不連続殺人事件』とか。飽く迄も、個人的見解ですが)だったりすれば、読み手は、肩透かしを喰らったかのような気になってしまう。

 《探偵小説》を取り巻く論議の一テーマとして、『本格』と『変格』に関する問題がある。その歴史は古く、甲賀三郎により『本格』という言葉が使われ出したのが大正14年(1925年)の事だから、彼是90年もの永きに亘って、《探偵小説》愛好家や推理作家たちを悩ませてきた。事実、何度か、この『本格』と『変格』を巡る論争が繰り広げられてきたのだが、その辺りの事情については、また別稿で論じたいと思う。

 孰れにしろ、〈何を以って『本格』と称するか〉に関しては、取り敢えず、ここでは《謎》と〈真犯人〉、そして、〈探偵〉が導き出す《謎》の解明が美味くブレンドされ、一服の秀逸な味わいとして堪能できる《探偵小説》こそが、『本格』を被せるに相応しい作品となるのだ、と定義しておきたい。 

 その定義を踏まえた上で照らし合わせてみると、《見立て》をテーマとした《探偵小説》というものは、矢張り、『変格』の部類に入らざるを得ないのではないか、と思えてしまう。

 いや、それは考えすぎではないか。この論考を重ねながら、私の心の一部は、常に、そう叫んでいた。『獄門島』にしろ『僧正殺人事件』にしろ、何れも『本格』《探偵小説》としては、絶大の評価を得ており、東西《探偵小説》の雄と言っても過言ではない。だが、江戸川乱歩の言葉を借りるまでもなく、何処か『本格』としての物足りなさを感じてしまうのも正直な気持ちだった。

 その最大の理由は、提示された《謎》、即ち、片や『俳句に擬えた殺害死体』、片や『童謡に擬えた異常殺人』から導き出される解答と、暴かれた《真犯人》の関連性が、非常に脆弱だからだ。

 《見立て》殺人を企てた《真犯人》は、何故、その殺人を《見立て》ねばならなかったのか。

 『獄門島』の場合は、〈趣味嗜好〉。

 『僧正殺人事件』の場合は、〈反動〉。

 

 え、それだけなの?

 

 と、ついつい思ってしまう。

  だが、この何とも言えない〈肩透かし〉感を味わいながらも、《見立て》をテーマとした《探偵小説》は、矢張り(《書き手》にとっても《読み手》にとっても)、非常に魅力的なのだ。

 

 梅の樹から逆さにぶら下がる少女。

 凍った湖面からにょきりと突き出す両足。

 便器の中に逆さまに突っ込まれた死体。

 滝から流れ落ちる水を口の漏斗で受け止める娘。

 

 実に、絵になる。

 大体《謎》の提出自体がダイレクト且つスマートだ。

 なのに、何故、その答えとなると『え? それだけ?』的な解答多いのだろうか。 

 今回、敬意を表して、横溝正史の『悪魔の手毬唄』に関しては余り突っ込んだ分析はしなかったのだが、基本的には『僧正殺人事件』と同じ構図になっている。

 〈真犯人〉が『鬼首村手毬唄』を《見立て》に用いたのは、偽の〈犯人〉へのミスリードという側面もあるのだが、結局は、自分が狙う三人の娘と『鬼首村手毬唄』に謡われている三人の娘たちとの相似だけなのだ。それに気付いた〈真犯人〉は、もう、この『手毬唄』を無視して犯行を行うなど考えられなくなってしまった。

 結果、恨み骨髄の〈真犯人〉は、嬉々として《見立て》を実行する。

 要は、その程度なのだ。

 なんとなく、はぐらかされたような気がしてしまうのは私だけなのだろうか。

 考えるに、この感情の出どころは《見立て》殺人を扱う《探偵小説》(正確には、そこに登場する〈真犯人〉)が背負わざるを得ない殺害に至る《動機》の二重性にあるのではないか。

 例えば、『獄門島』の場合は、〈真犯人〉の本来の動機は《優生主義》に根差した〈邪魔者〉即ち〈三人娘〉の排除だった。『僧正殺人事件』では、実に単純な《嫉妬》の念(自分よりも優れた頭脳に対する《嫉妬》、或いは愛情から来る《嫉妬》)が殺害の動機となっている。

 これら本来の《動機》に、更に《見立て》を行う《動機》をも〈真犯人〉は背負わねばならなかった。

 確かに《探偵小説》に於いては、この手の《何故、✖✖しなければならなかったか》という命題を大なり小なり説明しなければならない。

 都築道夫の〈キリオン・スレイ〉シリーズの第一集『キリオン・スレイの生活と推理』などは、その《何故、✖✖しなければならなかったか》が、その儘、短編の題名(どちらかと言えば〈副題〉的扱いだが)になっている。

 例えば、

  

 なぜ自殺に見せかけられる犯罪を他殺にしたのか

 なぜ完璧のアリバイを容疑者は否定したのか

 なぜ殺人現場が死体もろとも消失したのか

 なぜ密室から凶器だけが消えたのか

 

 と言った具合に。 

 《探偵小説》の場合、〈犯人〉〈動機〉〈殺害状況〉等の根幹部分に関する《謎》に加え、この『キリオン・スレイの生活と推理』のように、細部にも《謎》が鏤められている事が多いから、それら全てを包括した上で《謎》に対する説明が為されなければならないのだが、重要な事は、その一つ一つの暴かれた事実が一繋ぎになった時点で、全てが『論理的に整合性を持たねばならない』という約束を守らねばならないという点だ。

 その〈論理的〉な〈整合性〉を保つ事が《探偵小説》では至難の業なのだが、《見立て》をテーマとした場合は難易度が一気に揚がる、というか、寧ろ、破綻すらしてしまうように思えて仕方がないのである。

 

 なぜ犯人は《見立て》ねばならなかったのか

 

 の答えが、『犯人が、そうしたかったから』というのは如何なものか。

 

 別のテーマ例を挙げて、比較してみよう。

 《探偵小説》作家が一度は取り上げてみたいと考える《密室》も、その〈論理的〉な〈整合性〉を保つのが困難なテーマだ。鍵の掛かった部屋で死体が見つかった場合、〈論理的〉な〈整合性〉が保たれる唯一の理由は『犯人に因る〈自殺〉乃至は〈病死〉といった〈他殺〉以外が原因だと思わせる《死》の演出』のみである。

 だが、この〈論理的〉な〈整合性〉も『孰れ暴かれざるを得ない《探偵小説》の《謎》』という構図の中では、やや、無理強いな設定へと傾き兼ねない。結局、『〈自殺〉乃至は〈病死〉』は〈他殺〉であると判断され、苦労して創り出された《密室》は、無粋な《探偵》に依って無理やり抉じ開けられてしまう運命にある。穿った捉え方をすれぱ、だったら端緒から《密室》など現出しなくてもよいのだ。寧ろ、鉄壁の《アリバイ作り》に精力を傾けた方が、より現実的だ。

 《見立て》殺人も、同様である。〈動機〉が他にきちんとあって、その〈動機〉に則って犯罪が行われるのなら、態々そこに〈童謡〉や〈俳句〉を《見立て》るなどというややこしい手法を取り入れる必要はない。あるとすれば、責て〈論理的〉な〈整合性〉を用意して欲しいのだが、結局は、犯人の気分でしかないのだとすれば、《探偵小説》としては、余りに適当すぎる。

 ただ、《密室》と《見立て》が大きく違っている部分は、《密室》の場合、仮に《密室》での〈自殺〉なり〈病死〉が〈他殺〉であると判明しても、次の段階として、では《密室》はどのようにして創り出されたか、という新たな《謎》へと昇華してゆく点にある。これは、当初から『《密室》での〈他殺〉』であったとしても同じである。詰まり、《密室》は《密室》として認知されても尚、《探偵小説》としての《謎》を提出し続ける事が可能なテーマなのだ。

 一方の《見立て》殺人の場合は、どうか。

 どの段階であろうと《見立て》が《見立て》られた時、唯一導き出される《謎》は、『何故』だけである。《誰が》《どうやって》は、余り大きな位置を占めない。《見立て》自体が既に大きな《謎》として存在するだけで、それ以上でも以下でもないのだ。精々、行われた犯罪の背後に横たわる〈行動心理〉を導き出すのが関の山だ。だからこそ、《見立て》は《探偵小説》よりも動機無き(と臭わせて、実は動機が在る)連続殺人を追う《警察小説》に馴染んだりもするのだ。

 極端な表現をすれば、《見立て》テーマの《探偵小説》は、二つの動機を〈探偵〉役或いは〈読者〉に投げかける。即ち、その犯罪自体に対する〈動機〉と《見立て》ねばならなかった〈動機〉の二つを。

 この二つの〈動機〉は、イコール(そこまでには至らなくとも、連携した一つの〈動機〉としての機能)に成り得るだろうか。

 無理だ。

 『犯罪自体に対する〈動機〉』は、常に、どんな『犯罪』であろうともシンプルである。金銭。恨み。嫉み。妬み。嫌悪。怒り。《殺人》という行為を犯す事によって、《殺人》の実行者が何らかの恩恵(衝動的な憤怒の発露の結果起きた《殺人》もまた、或る種の恩恵〈『スカッとする』的な〉だろう)を得る。その図式は、非常に単純且つストレートであり、そこに《見立て》への〈動機〉(〈情動〉と置き換えても好い位だ)を挟み込むのは矢張り無理がある。『単純且つストレース』な〈動機〉に、敢えて《見立て》という訳の分からない〈複雑〉系を加える必要がどこにあろうか。

 ただ一つ、例外を挙げるなら、それは『殺したいから、殺したいように殺す』異常殺人者の場合だ。前段の『私説《見立て》類別』で触れた〈人食い〉ハンニバル・レクター博士のように、単純に、そのセンスのみで『したいから、する』という犯罪行為としてなら《見立て》は極めて実用性のある手法となるが、こと《探偵小説》というジャンルの中では、どうしても取って付けた邪魔な行為へと落ちぶれてしまう。

 結論を言おう。

 《見立て》は〈殺人〉を扱う一つの『物語』に対する霊妙なるエッセンスではあっても、《探偵小説》を《探偵小説》(無論、この言葉に『本格』の二文字を被せても良い)足らしめる材料としては、非常に役不足なのだ。

 確かに《謎》としては、これほど読む者を魅了するテーマはない。

 そのインパクトの強さは、《何故》が、あからさまなまでの形態で提示されるところからくるのだろう。故に、《何故》の答えに対する期待も、弥が上にも高まることになる。《何故》犯人は、被害者を《見立て》ねばならなかったのか。そこには、普通では考えも及ばない、だが、為るほど明瞭な理由が存在するに違いない。そう期待してしまう。

 なのに、用意された《解答》と言えば、本来の動機を隠す為だとか、偽の〈犯人〉へとミスリードする為だとか、要は、捜査を攪乱する程度が関の山で、では、《何故》《見立て》を用いたのか、という問いかけには、精々〈精神論〉で答えるのが精一杯という為体だ。

 或いは、全ての元凶は、今から九十年ほど前一美術評論家が書き始めた、とある《探偵小説》シリーズの中に用いられた一シチュエーションの素晴らしさの中にこそ在ったのだろう。本来なら、そこで終わりにするべきだったのだ。だが、余りに魅力に富んだその題材は次々に亜流作品を生み出していったものの、《探偵小説》に於ける一《テーマ》としては今一つ柔軟性に乏しかった。辛うじて『ABC殺人事件』で試みられたような、所謂《筋書き》殺人へと変容して、《探偵小説》としての進化を遂げたともいえるのだが、《密室》テーマのように、様々なバリエーションを生み出すまでには至らなかった。

 

『探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である』

 

 そう定義したのは、江戸川乱歩である。

 《犯人》は、この『難解な秘密』を何とか糊塗しようと苦心惨憺し、《探偵》は、その目論見を一つ一つ《論理的》紐解いてゆく。その『経路の面白さ』こそが、《探偵小説》の『主眼』なのだと大乱歩は謂う。

 『獄門島』に向かって放たれた〈常識論的な納得の行かなさ〉という江戸川乱歩の言葉は、この作品に描かれた《見立て》の部分に限っては『難解な秘密』も『論理』性も、悉く破綻しているが故に発せられたのではないか、と思うのは穿ちすぎであろうか。

 

 6 終わりに

 

 あれこれ好き放題論じてしまったが、それでも『獄門島』は私の大好きな《探偵小説》である。

 特に、《物語》全体を包み込む抒情的な雰囲気が何とも堪らない。

 

 惨劇の夜は霧のふかい朝となって明けた。(本文より)

 

 素晴らしい一文だと思う。

 中でも私が一番好きなシーン(どうしても、頭の中に〈画像〉を描かずにはおれないのだ)は、ラストだ(そして、私の記憶の範囲では、この『大団円』の箇所を完全に再現した映画もテレビシリーズもないのである。是非、完コピで映像化して欲しいと切に願う)。

 金田一耕助が、島を去る日。

 船着き場。

 見送る島の人々。

 彼らに降り頻る小糠雨。

 いい知れぬ悲哀を抱いた耕助(『床屋の清公』に言わせれば『早苗』にフラれたかららしい)。

 別れの挨拶。

 馴染みの白竜丸が船着き場へと入ってくる。

 出ようとする艀に飛び乗る一人の復員服姿の若者。

 鵜飼章三だ。

 

「あっはっはっ、鵜飼さん、おまえとうとうお払いばこになったね。さりとは分鬼頭のおかみも現金な」

 

 清公の毒舌が飛ぶ。

 

(そうだ、それでいいのだ。ここは他国のもののながく住むべきところではない)

 

 やがて、霧雨を縫うように聞こえてくる鐘の音。

 

 耕助は艀のなかにつと立ち上がると、

 「南無……」

 と、霧雨けぶる獄門島にむかって合掌した。

 

 美しくも悲しいラストシーンである。

 『獄門島』は、横溝作品の中で最も悲劇性に突出した《物語》であると私は思う。

 この詩情溢れる、だが余りにも虚しい悲劇性は、恐らく、あの〈三人娘〉に対しての《見立て》が行われたからこそなのだ。もしも、単に殺されていただけの話ならば、このラストに凝縮された哀しみや虚しさ、やり切れぬ想い、そして紙面から溢れ出る抒情は生まれてはこなかっただろう。

 『獄門島』は、所謂《本格》『探偵小説』とは一線を画している。

 はっきり言ってしまえば、《変格》の部類に入るのだと思う。

 その最大の原因は、《見立て》テーマの『探偵小説』だからだ。

 だが、それは決して、この《物語》を殺すものではない。

 寧ろ、《見立て》によって、これ以上ないというほどに《物語》が生かされている。

 《見立て》が持つ絵面の良さ、無意味なまでの情緒性が、閉鎖的な〈島〉という舞台で繰り広げられる悲喜劇に見事に溶け込んでいるのだ。

 それを〈文学性〉とまで表現してしまったら、言い過ぎだろうか。

 逆もまた真なり。

 《本格》『探偵小説』に〈文学性〉は馴染まない。

 まぁ、賛否両論が在るかもしれないが。

 だが、恐らく、ミステリー作家が書いた《本格》『探偵小説』がノーベル文学賞を受賞することはないだろう。

 〈手法〉としては、可能なのかもしれないが。

 何故なら、〈理想〉だの〈前衛〉だのといった要素は、凡そ『探偵小説』には似つかわしくないし、何よりも、最後には全てが〈解決〉されなければならないからだ。

 では、《変格》『探偵小説』の場合は、どうか。

 矢張り、こちらも無理に違いない。

 可能性としても、限りなくゼロに近いだろう。

 けれど、《変格》『探偵小説』は《本格》が示し得ないベクトルを内包している。

 それを〈文学性〉の一言で表してしまうのは乱暴かもしれないが、少なくとも、『探偵小説』を新たな角度から映し出す技法の一つであることは間違いない。

 或いは、〈脱却〉と呼ぶべきか。

 その《本格》『探偵小説』からの〈脱却〉で、どの『探偵小説』作家よりも苦悩し、また見事に〈脱却〉を果たして見せたのが、エラリー・クイーンである。

 という訳で、次回はクイーンの作品を取り上げる。

 横溝正史も『獄門島』を書くにあたって多大なる影響を受けた『Yの悲劇』だ。

 実は、この作品も《見立て》テーマの作品に分類される。〈筋書き〉殺人とも呼ばれる分野だ。本来、『獄門島』も、この〈筋書き〉殺人に入るのだが、この論説では、敢えて《見立て》として取り上げた。

 だが、二作品は、似て非なる存在である。

 ほぼ似たような構図を取り上げながら、『Yの悲劇』は、骨の髄まで『本格』《探偵小説》なのだ。しかも、所謂《ドルリー・レーン》シリーズ《X・Y・Z・最後》の悲劇四部作は、シリーズ自体が最終的なトリックへと結びつく一つの仕掛けになっており、それでも足りないかの如く、作者の《バーナビー・ロス》は覆面作家としてエラリー・クイーンに〈挑戦〉までしているのである。

 この辺りのエンターテインメント性とパズル精神の徹底さは、如何にもアメリカらしい気がする。

 

 最後の最後に〈蛇足〉として。

 《見立て》テーマの《探偵小説》を好き勝手に書きたい放題論じ放題してしまったが、実は、見事な〈論理〉と〈整合性〉で結末づけている作品が、私の記憶に一つだけ存在する。

 泡坂妻夫の《亜愛一郎》シリーズの『亜愛一郎の転倒』に収録されている『意外な遺骸』だ。銃で撃たれ、茹でられ、そして焼かれた死体に隠された〈謎〉。《あんたがたどこさ》の童謡に《見立て》られた真相を、見た目[京極夏彦の《百鬼夜行》シリーズに登場する《榎木津礼二郎》]なのに振る舞いは、その真逆バージョンという《亜愛一郎》が、ぼそぼそと見事な推理で解決する逸品である。興味のある方は、是非、ご一読を。では、次回。

〔《本格》か、《変格》か  〔横溝正史 『獄門島』を巡って 下編〕 了